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一時は金正日総書記の後継者候補、結局は甥に…(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.12.04 11:02
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2002年には経済視察団の一員として訪韓し、ソウルと慶州・済州などを回った。当時、張成沢に会った統一部の当局者は「張成沢はかなり開放的な考えを抱いていた」とし「北には張成沢に追従する人たちが多く、張成沢の声が高まれば、経済的に北に大きな変化があるだろうと期待した」と話した。

しかし曲折も多かった。70年代初期に張成沢の主導で建設した体育館が開館前日の火災で全焼する事件が発生すると、私生活問題などを理由で地方に左遷された。90年代の青少年事業部長時代にも私生活問題で失脚し、党で運営する協同農場で労働をしなければならなかった。しかし切歯腐心の末、張成沢は「党の中の党」と呼ばれる労働党組織指導部の第1副部長として復帰した。

 
2004年、張成沢はまた試練を迎えた。同年2月の党幹部の子弟の結婚式が発端だった。結婚式に出席したある幹部の運転手が飲酒運転事故を起こし、事故の経緯を調査する過程で、結婚式が派手に行われたこと、崔竜洙(チェ・ヨンス)人民保安相ら幹部が張成沢勢力に加わっていたことが明らかになり、金正日総書記の怒りを買った。

2006年に復帰したが、一人娘の張グムソンがフランスで自殺するという痛みを経験した。その後、張成沢は平壌市の現代化の責任者となり、位置づけが高まった。金正日の死去後、党政治局委員、人民軍大将、党中央軍事委員など核心要職を引き受け、「叔母の夫が甥を前面に出して摂政するのではないか」という観測もあった。


一時は金正日総書記の後継者候補、結局は甥に…(1)

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