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【コラム】若者をゆする韓国社会(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.03.04 15:16
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大学院を卒業するまで私の人生計画にジャーナリストはなかった。ダンサーあるいは小説家になって貧しい芸術魂を燃やしながら生きようと思っていた長年の夢は、熱望よりも才能不足であきらめ、現実的な代案として公然と学生時代を延ばしていたところだった。そうするうちに偶然見かけた新聞の記者募集公告に気が向いて、この道に進むことになった。当時は言論メディアに対して完全無知だった。ところがやってみると天職だった。人生は計画どおりに行くものではない。

近頃のようだったら私は新聞社に願書も出せなかっただろう。私たちの時代は論文・作文のように学校で学んだもので試験を受けた。ところが近頃は実務的でスペックも立派だ。私の場合、入社後になって知ったストレート・ボックス・スケッチのような記事をこの頃の受験者はてきぱきと書いて出す。入社して1カ月に学ぶことをあらかじめ「熱勉(一生懸命に勉強)」しなければならない。あの時の試験がこうだったら、私は鉛筆さえも持ち上げられなかっただろう。

 
大企業の公開採用(公採)が始まって会社ごとに人材基準と選抜方式を出している。選ぶ企業数も人員も減ったし、望む人材像は乱数表のようだ。ある会社はスペックよりも人物素養を見て、ある会社は職務能力評価を強化し、別の会社は汎用人材よりもオーダーメード人材を好むのだ。試験方式も資格も違い、どんな準備をすべきなのかよく分からない。

これに対し青年たちは自己紹介書(自紹書)にまるでその会社に入社するために生まれてきたかのように書くことに心血を注ぐ。それで「自紹説」というのだ。ところで青年たちが大学の単位やあらゆる資格試験、社会経験、ボランティアまでする中で、あらかじめ1つの企業の社員として生きようとして細かく人生シナリオを組んで生きることは可能なのか。いつも変数が突出し、計画どおりにならない人生を生きた私たち既成世代は不可能だということを知っているのではないか。それなのに、なぜそういうことを要求するのだろうか。


【コラム】若者をゆする韓国社会(2)

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