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【コラム】我々はまだ「国民」時代を生きている=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.12.02 17:40
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国の境界が崩れた地球村時代、全世界の74%の市場と関税障壁を動かした韓国は、まだ「国民時代」を守る特別な国だ。米国の大統領は普通、「親愛なる市民の皆さん(Dear American Citizens!)」で話し始める。「国民」は戦争や災難など特別な状況で愛国心を鼓吹するために呼称されるだけだ。韓国の大統領はただ「親愛なる国民の皆さん」だ。年頭教書や談話文で「市民の皆さん」で始めれば全国が騒がしくなるだろう。逆に朴元淳(パク・ウォンスン)市長が「親愛なる国民の皆さん」と話したとすれば、ついに本心を表したと特筆大書されるはずだ。私たちには釜山市民、光州市民は存在しても「韓国市民」はない。形容矛盾だ。何が問題なのか。

米国市民、ドイツ市民は歴史的な地位が明確な存在であるため形容矛盾ではない。19世紀、100余年間、支配層と争う過程で内部結束力と独自の市民精神を育んだ。復古的・特権志向的な貴族階級に対抗し、進取的・平等志向的な倫理を前面に出した。商工業の発展には契約と信頼が必須であり、文化的品格と世俗的敬虔性を結合させた。内部葛藤が発生すれば「自治」で解消した。「自分の生存」のためには「他人への配慮」を優先すべきだという共存倫理が市民の発明品である「自治行政」で芽生えた。欧州で労働者と農民が権力に挑戦してきた時、階級妥協で解いたのも共存の精神だった。国民になる前に彼らは市民だった。ワシントン市民、ベルリン市民でなく、家族・社会・国家の均衡を志向する普遍人だった。市民権とは「自分」のために「他人」を尊重する義務を意味する。

 
我々にはそのような市民的な経験が乏しいため、市民権もまともであるはずがない。学識・教養・財産を兼ね備えた中産層が幅広く形成されたが、なぜ市民の呼称はこれほどぎこちないのか。市民層が社会を主導する精神的な様式を作り出せないためだ。公益と共存よりは私益と出世に余念がなかった。それは韓国の歴史的な特殊性に起因する。植民時期と戦争で伝統的な支配層が瓦解したその空間を占めようとする先占競争が発生した。産業化時代によりいっそう加熱したこの出世競争が、「健康な市民性」より「格別な能力」を高めろと命令した。この「格別な能力」明細書には、共存と公益、他人への配慮のようなものはない。言語と料理、文化と芸術のような教養市民の必須徳性もない。高級マンションと自動車誇示欲、そして権利死守のための訴訟意欲が光る。


【コラム】我々はまだ「国民」時代を生きている=韓国(2)

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