日本、政策安定せず不況に…米国、一貫した信号で危機乗り越え(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.11.20 08:37
2012年4月15日、三重野康元日本銀行(日銀)総裁が88歳で死去した。日銀は彼の長男から特別な要請を受けた。「会社社長のような公式的な葬儀をしない。静かに家族葬でしたい」という要請だった。理由がある要請だった。1989年12月、三重野は日銀第26代総裁に就任した。バブル経済が最後の火を燃やした時期だ。三重野は就任1年で金利を3回引き上げ、緊縮政策を進めた。米国の株価が大暴落した「ブラックマンデー」の余波で、日本株式市場と不動産バブルが崩壊したが、彼は動じなかった。日銀と財務省はお互い責任転嫁していた。米国の圧力によるプラザ合意、その後の利下げがバブルを呼んだという論理だった。外部要因で膨らんだバブルなのに、それが少し消えたからといって無理な通貨緩和(インフレ誘発)政策は展開できないという固執につながった。このように日本は手放しでデフレを迎えた。
20余年が過ぎ、三重野元総裁が死去したその時。米国では当時のバーナンキFRB議長が施行した大規模な量的緩和(ドル供給)が効果を出していることが景気指標で表れ始めた。バーナンキは、タイミングを逃して状況を誤認した90年代の戦後日本の経験をもとに、果敢な量的緩和策に出たと公然と話してきた。韓銀の関係者は「静かに家族葬としたいという三重野元総裁の息子の要請の裏には、父の死がバーナンキの成功と比較されて再び失策に注目が集まるきっかけになるのではという懸念があった」と説明した。遺族の悩みとは関係なく、日本経済新聞は彼の訃告に「バブル崩壊後、三重野元総裁が通貨緩和政策を遅延させ、日本経済が長期沈滞につながったという指摘がある」という評価を付け加えた。