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韓国に来る外国人観光客、1日1万人…「物は安いがさらにまけてくれる」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.10.06 16:12
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まだ早朝。午前7時を少し過ぎた時間だ。勤勉な者たちはすでに店のドアを開けて商売の準備を始めていた。店の電灯が1つ2つとついて、静かだった通りに活気が戻り始める。

向い側の店で韓流スターのポスターや額縁などを売るおじさんは、すでに商品の陳列を終えて新聞を読んでいる。なんと勤勉なことだろう。商店街の内側の衣料品店のおばさんもインスタントコーヒー1杯を飲みながらお客さんを待っている。午前11時ごろにならないとお客さんが来ないことを分かっていながらも7時になればきれいにお化粧をしてドアを開ける。30年以上、南大門のさまざまな店の店員として働いて数年前に自分の店を出すことができた。「外国のお客さんがメード・イン・コリアを探しているからね。下着についたタグをいちいち確認して買っていく」といいながら質の良い国産製品を売ると自慢している。

 
向こうの履き物店の青年はすでに開始した。朝早くから南大門市場を訪れた背の低い若い日本人女性2人はこの青年の流ちょうな日本語とすらりとした容貌に夢中になっている様子だ。しきりに笑って冗談をやり取りしているかと思っていたら、青年がすすめた履き物を数足、ビニール袋に入れて出てきた。

毎日見る光景だが、今朝は特に感慨深い。南大門市場600周年の記念式(1日)をしたからだろうか。600周年か。いつのまにか600年の歳月が流れたということか。私もここで600年生きた。ドラマ『星から来たあなた』のために私たちの正体が一部あらわれたりしたが、私が地球星に住むエイリアンだということを知っている人はまだいない。あえて私の正体を明らかにはしないが、「南大門市場の商売人ト・ミンジュン氏」ぐらいにしておこう。

私は市場が好きだ。人と物で込み合う市場の活気に満ちた雰囲気がいい。私が初めてここにきたのは1414年、太宗がここに市廛行廊(シジョンヘンラン)を作りながらだ。市廛行廊というのは、国から許可された商人が食べ物や服などの生活必需品を売った場所だ。

過去600年間、南大門市場はいつもこの場にあった。600年の歴史の流れの中で数多くの浮き沈みを経験した。

ここに本格的に人々が集まったのは朝鮮を荒地にした壬辰倭乱・丙子胡乱(文禄・慶長の役)以後だ。故郷で暮らせなくなった農民が南大門の外の地域に集まってさまざまな物を売って生計を維持しながらだ。一時、私と親しく過ごしたチョン・ヤギョンが書いた詩にも南大門が登場する。「崇礼門(スンネムン、南大門)の前の市場が早朝に開かれて/集まった人々の話し声が城の向こう側から聞こえてくるよ/かごを持った小婢が少し遅いようだから/新鮮な魚1、2匹を手に入れたのだろう」。

日帝時代も南大門市場はソウルで最も大きな市場だった。取り引き金額が東大門(トンデムン)市場の2倍を超え、交通量も京城の中で最高だった。だが韓国戦争(朝鮮戦争)の爆撃で南大門市場は灰と化した。その時のことを思うと本当にぞっとする。

南大門市場に「トッケビ(おばけ)市場」「ヤンキー市場」「アバイ市場」といった別称が生まれたのは韓国戦争後だ。当時、韓国には本当に何もなかった。生計のために南大門市場に集まった人々は米軍部隊からの流れ品や服地、カメラ、時計などの密輸品を売った。取り締まりが来れば俊敏に逃げ去ってしまうことから「トッケビ市場」だったし、ガムやチョコレートなど米国物がたくさん取り引きされることからヤンキー市場だった。アバイ市場は、手ぶらで北朝鮮からやってきた故郷に帰れない人々が、米軍部隊からの流れ物を片っ端から売って商権を掌握しながら生まれたニックネームだ。

その時期、南大門市場にはよく火災も起きた。1954年に1000余りの店舗がすっかり焼けてしまった大火災が発生したし、68年にも775店舗が火災で全焼した。68年の火災は今のような南大門市場を作った契機となった。現在の南大門市場の中心である3階商店街の3棟(C・D・E棟)を新しく建てたのだ。


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    2014.10.06 16:12
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    5歳の娘エバを抱いて南大門市場を訪れたフランス人のパトリス・シャバニさんと妻キャロルさん。シャバニさんは「英文の表示板があれば良い」と話した。
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