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【社説】安全は不便さに対する補償だ=韓国

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2014.04.27 13:05
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26日午前、本社が位置するソウル・西小門路のある建物の前で大型クレーンが車道の一部をふさいで作業をしていた。道を歩く人のための安全通路もしっかり確保しないまま。歩く人は十数階上の補修作業現場の下を無防備に通り過ぎなければならなかった。道の向かい側の数十メートルほど先には派出所、歩いて10分余りの距離には警察庁があっても安全死角地帯は口をポカンと開けていた。

何か事故が起きればしばしば「安全不感症」が俎上に上がったりする。しかししばらく騒ぐだけで、ひっそりと不感症という非正常が正常へと再び座を占めるのが韓国社会の現実だった。セウォル号沈没事故もその延長線といえる。安全に対する不感症はあちこちで効率と欲と一等主義が染みついた私たちを誘惑する。「まさか事故が起きるだろうか」と言いながらだ。

 
なぜそうなのか。構造的に安全に目を閉じ、危険を知りながらも甘受するのが当事者の目先の利益に合致するためだ。

この数日議論を呼んだ、ソウルと京畿道(キョンギド)を行き来する直行座席型広域バスの立ち席運行もそうだ。これまでは定刻にバスに乗って行こうとする乗客と、彼らをぎゅう詰めにして金を稼ごうとするバス会社の利害関係が合致し、公共の価値である安全は後回しにされた。そうしておきながら突然安全規定を守り立ち席を禁止すればだれもが具合が悪くなる。乗客は定刻に動けなくなり、バス会社は収入が減る。バスの代わりに自家用車を使う人たちで交通事情はさらに悪くなる。臨時増便や地下鉄建設など代替交通手段の用意には莫大な費用と時間がかかる。こうした状況で、「乗客の不便を減らすため立ち席を一部許容する」というバス会社の説明は「乗客の安全は後回しにする」という宣言と変わらない。

このように安全は決して無料ではない。途方もない費用と代価をかけてこそ初めて得られる。無能な官僚がうごめく政府にばかり任せられることでもない。安全とは不便で、面倒で、高くて、時にはつらい過程を、社会構成員が分け隔てなく甘受する時に全て確保することができる。大型事故を繰り返さないようにするならその負担に耐えるという用意と意志が必要だ。

こうした基本的認識から出発しなければ安全は垂れ幕の中のスローガンにとどまることになる。そのうちに大型事故がまた起り、だれもが自分のせいだと胸を叩いて号泣しても何も効果がない。国家改造を大げさに考える理由はない。私たちの安易な意識をともに変えていくのが国を安全なところとして直す道だ。すぐにきょうからでも生活の隅々でほこりをかぶっていた安全規則を生き返らせなければならない。局面突破のために首相や閣僚を変えよう、やめようというような低級な政治議論より、交通信号ひとつでもしっかり守ろうとする個人の実践が安全にさらに近づく道だ。(中央SUNDAY第372号)


【特集突韓国旅客船「セウォル」沈没事故

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