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近代医術導入した親韓派アレン氏、大韓帝国は活用する力すらなかった

2009.04.24 11:01
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大韓帝国(1897年10月12日から1910年8月29日までの朝鮮の国名)最後の米国公使アレン(H.N.Allen)氏。

 
1884年の秋、医療宣教師としてこの地を訪れてから数カ月にもならない時点に起きた甲申政変(1884年ソウルで、日本の援助を得て開化派が起こしたクーデター)で同氏に王室へ入ることになった。剣による刺し傷や切り傷を縫合する神妙な医術で、閔(ミン)妃のおい閔泳翊(ミン・ヨンイク)を救ったおかげで「御医」となり、翌年4月には近代病院「広恵院」(クァンヘウォン)を設立し、キリスト教の布教の道も広めることができた。

それ以降、同氏は駐韓米公使館の書記官(1890-1893)、臨時代理公使(1893-1897)、全権公使(1897-1905)などを歴任し、朝鮮(チョソン 1392-1910)王朝と、栄誉や恥辱をともにした。当時、同氏は、王室の信任をもとに▽キリスト教の宣教▽京仁(ソウル・仁川)鉄道の敷設権▽金鉱の採掘権--を獲得した「帝国主義の侵略の手先」でもあったが、中国、ロシア、日本など覇権勢力が変わる度に朝鮮を守ろうと全力を尽くした、「朝鮮独立」の擁護者でもあった。

侵略の剣と守護の盾を同時に手にしていたため、同氏は2つの顔を持つヤヌスとされる。しかし同氏が「米国の利益」という玉を「朝鮮の独立」というひもでつなごうとした、珍しい親韓派だったというのは否定できない事実だ。1900年の義和団事件を口実に、ロシアが満州を手中に入れようとすると、ルーズベルト米大統領は満州地域への進出に赤信号がともったと判断、反ロ・親日の方向に政策の基調を決めた。

しかし1903年にアレン氏はルーズベルト大統領に向かって「英国と日本の利益のために、火鉢の中にある栗を握るのも同然の愚かなこと」と真っ向から対抗した。

「日本が今後、勢力を伸ばしつづける場合、太平洋地域の商業をすべて支配しようとするはずであり、世界貿易で米国に対抗することになるだろう」--。

日露戦争の直後、同氏は、日本が米国の敵国に浮上することを正確に推測できたほど慧眼(えげん)を持っていたが、国の政策基調を変えられるほどの力は持っていなかった。1903年初め、同氏は本国へ向かう前に、夫人と書記官パドクとともに撮影した写真を残した。下の階段の右側に立っている6尺の長身がアレン氏だ(写真)。

1905年1月「我々は自らを守るために侵略者に一撃も加えられない韓国人のため、日本を相手取った仲裁に臨むことはできない」とし、ルーズベルト大統領は朝米修好条約に明記された懸案調整の義務を弊履(へいり)のごとく投げ捨てた。同年7月、米国は桂・タフト協定を結び、米国のフィリピン統治と日本の朝鮮に対する優越支配を相互に承認した。

北朝鮮の核とミサイルにより東アジアの情勢が揺れ動く今日。自らを守れる力とともに、我々の立場をきちんと代弁してくれる力のある米国内の勢力も育てねばならないのが、失敗の歴史から学ぶべき教訓ではなかろうか。

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